湖に住む魔物



 遠い国のお話です。
 緑豊かなその国の、森のずっと奥深いところに、美しい湖がありました。
 湖のほとりには、一本のリラの木が立っていました。春になると、うす紫のリラの花びらが
水面にはらはらと舞い落ち、岸辺には春の花が咲き乱れ、それはそれは美しい光景になります。
 しかし、この湖に近づく人は、いませんでした。
 湖の底には、恐ろしい魔物が住んでいたからです。

 その魔物を見たという人々は、みな口をそろえて言うのです。
 姿かたちはたいそう醜く、おおかみ男のように恐ろしげで、半魚人のように気味悪く、フラ
ンケンシュタインのような怪物だった……。
 その言葉はけっして大げさではありません。魔物は本当に、そんな恐ろしいようすをしてい
たのですから。
 ライオンのたてがみのようなぼさぼさの髪の毛に、つり上がった目、耳までさけた口、全身
には銀色に光るうろこがびっしりと生えている、大男なのです。
 だからこのあたりの人々は、狩りをする猟師でさえ、ここには近づかないのでした。

 魔物はもうずっと長いあいだ、暗く深い水の底に、ひとりぼっちでいるのです。
 何十年、何百年たったのかもわからないほど、長い時間がすぎました。魔物は、なぜ自分が
湖の底にいるのか、どうしてこんな醜いかっこうをしているのか、わかりませんでした。何も
思い出せないのです。ただひとつわかることは、自分は昔、人間だったということだけです。
 誰かに尋ねようと湖から出てきても、人間はみな自分を怖がって、すぐに逃げてしまいます。
鉄砲で撃ち殺されそうになったこともありました。
 だから魔物は仕方なく、今では冷たい水の底でじっとしています。だれかと話すことも、笑
うことも、美しい花をながめることもなく、どうしようもない孤独に、心を閉ざしているので
した。
 でもときどき、魔物は思い出すことがあります。
 やさしい、きれいな、女の人の声を。
 
 ――かならず会いにいきます。待っていて。
 
 その声を思い出すと、魔物は心がうちふるえるほどの、喜びを感じるのです。
 なつかしい、大好きだった人の声。
 知っている、たしかに覚えている……。
(わたしは誰かを待っているのだ。その人がやってくるまで、わたしはここで待ち続けよう。
どんなにさびしくとも……)
 魔物はそう思い、魚さえも寄り付かない深い水底で、ひっそりと誰かを待ち続けているので
した。
 

 春がきました。
 湖に寄り添うように立っているリラの木のつぼみが、ほころびかけたころでした。
 ひとりの若い娘が、森の奥深くまでやってきました。野いちご摘みにきた、まだ少女のよう
な若い娘です。
 娘はもちろん、魔物のうわさは知っていましたが、ちっとも怖くありませんでした。ただの
迷信だと思っていたのです。

  湖の底でひっそりと
  息をひそめているのはだあれ
  恐ろしい姿のあなたはだあれ
  耳をすましてきいてごらん
  やさしい歌を、きいてごらん
  きっと何かを思い出す
  やさしい人を、思い出す
 
 娘は歌をうたい、野いちごを摘みながら、とうとう湖のそばまでやってきました。
 リラの花はまだ咲いてはいませんでしたが、岸辺のかわいらしい野の花が、そよ風にゆれて
います。やわらかい春の光が木漏れ日となってふりそそぎ、鏡のような湖面をきらきらと輝か
せているのです。
(まあ、なんてきれいな湖なの。こんなロマンチックな場所に魔物がいるなんて、うそに決ま
っているわ)
 娘はしばらくうっとりと湖をながめたあと、また野いちごを摘み始めました。やさしい声で、
歌をうたいながら。

  ひとりぼっちの魔物さん
  どうして忘れてしまったの
  私の歌を、おききなさい
  やさしい歌をうたってた
  いったいあれは、誰だった?
  きれいなきれいなお姫さま
  あなたが愛したお姫さま

 村に古くから伝わるその歌に、どんな意味があるのか、娘は何も知りませんでした。
 娘の澄んだ歌声が聞こえてきたとき、湖の中の魔物はハッとしました。
(この声は、あの人の声に似ている。あの人も歌うことが好きだった……)
 突然、魔物は何もかも思い出したのです。
 自分がなぜこんなところにいるのか、なぜこんな姿になったのか、ずっと昔何があったのか
ということを――。


 ずいぶんと昔、この国をまだ王さまがおさめていたころのことです。
 この森の近くに王さまのお城があり、その王さまにはたいそう美しいお姫さまがおりました。
 魔物はその姫に仕える、護衛の騎士でした。
 騎士と姫はあろうことか、身分のちがいを越えて恋に落ちました。しかしその恋が許される
はずもなく、ふたりはいつもこっそりと、湖のほとりで会っていました。ほんの少しの時間だ
け、人目をしのんで。ふたりは本当に心から、愛しあっていたのです。
 けれどそんな幸せも長くは続きません。ふたりは引き裂かれ、姫はとなりの国の王子と結婚
させられることになったのです。
「私をつれて逃げてください」
 城をぬけだしてきたお姫さまは、恋人である騎士に言いました。
「わかりました。どこかずっと遠くの国で、ふたりだけで暮らしましょう」
 ふたりは手に手をとって、森の中へ逃げ込みました。でも追っ手はすぐに追いついてきまし
た。姫をさらった騎士を殺せと、家来たちは王さまに言われていました。
 湖の近くまできたとき、家来たちは騎士めがけて矢を放ったのです。
 ところがなんということでしょう。
 矢は、騎士をかばった姫の背中に突き刺さりました。姫は愛する人の腕の中で、死んでいっ
たのです。
「私は生まれ変わって、あなたに会いにきます。待っていてください。かならず会いにきます
から……」
 姫はそう言い残しました。
 騎士は悲しみのあまり、湖に身を投げました。そうして湖の底深くに沈んだ騎士は、魔物と
なったのです。
 姫を殺した人間を憎み、その憎しみが、彼を恐ろしい姿に変えてしまったのです。


(思い出した、思い出した。私は姫を待っていた。生まれ変わって、私に会いにくる愛しい
人を。あまりに年月が経ちすぎて、忘れていたのだ。さっきの歌声で、思い出した……)
 魔物はいきなり、湖からざぶんと出てきました。それを見た娘はおどろき、野いちごの入っ
たかごを落として、その場にへたり込みました。
「おまえは姫の生まれ変わりなのか」
 魔物は娘に近づいて尋ねました。
 娘はあまりにも恐ろしくて、首を横にふるばかりです。
「私は待った、もうずっと長いあいだ……。何十年、何百年も……。姫、私をお忘れですか? こ
んな姿になってしまいましたが、私は騎士です。あなたを心から愛していた騎士です」
「わ、私は姫なんかではありません」
 娘はやっとそれだけ言いました。
「姫、私はもう待ちつかれた。もう待つのはいやだ。湖の底は暗く冷たく、とても孤独だっ
た。おまえが姫かどうかなど、もうどうでもいい。さあ、私をなぐさめておくれ。湖の底で、
ふたりでいっしょに暮らそう」
 魔物は娘の手をつかみました。
「いや、いやです。私はただの村の娘です」
 娘は必死に抵抗しますが、魔物の力はとても強いのです。ずるずると引きずられ、湖に引き
ずり込まれそうになりました。
「いや、助けて! 誰か!」
 娘が叫んだ、そのときです。
 風もないのにざわざわと、リラの木がゆれました。魔物と娘は顔をあげ、その木を見上げて
おどろいたのです。
 まだつぼみだったリラの花が、いっせいに開いていました。満開になったリラの木は、みず
から身をふるわせて、花びらをはらはらと落とすのです。湖の水面にも、魔物と娘の上にも、
まるで何かをうったえかけるように。

(その娘は姫ではありません。あなた、わからないの? わたしがわからないの? わたしは
もうずっと、ここにいるのに……)

 ふしぎな声が、魔物の耳に聞こえました。とても懐かしい、聞き覚えのある声が。

(あなたがどんなに醜い姿になっても、わたしにはすぐにわかったわ。あなたにはわからない
の? わたしがわからないの?)

 リラの木はまた枝をふるわせて、花びらを落としました。その花びらはまるで、リラの木の
涙のようなのです。     
 呆然と立ちすくんでいた魔物は、その涙を全身で受け止めて、そしてやっと気がつきました。
「――姫。ここにいたのか。ずっとここにいたのか」
 ああ、そうなのです。お姫さまはリラの木に生まれ変わり、ずっとここで待っていたのです。
魔物が気づいてくれるのを、ずっと待っていたのです。

(私の声は、湖の底まで届かなかった。毎年花びらを湖面に落としても、あなたはちっとも気
づいてくれなかった……)

 魔物の目から、とめどもなく涙がこぼれていました。
「わからなかった。気づかなかった。ごめんよ、ずっと気づかなくて……。本当に、すまなかっ
た……」
 魔物は両手を広げて、リラの木に近づいていきました。そしてそのりっぱな幹を抱きしめる
ように、両腕をまわしたのです。
 村の娘は、すべてを見ていました。
 天から降りそそいだ金色の光が、魔物とリラの木を、やさしく包み込んだのを。
 そしてそのまばゆい光がはじけとんだとき、ふたりが人間の姿にもどっていたのを。
 お姫さまは、女神のように美しい姫でした。
 そして騎士は、魔物の姿からは想像もつかないほど、ととのった顔立ちのりりしい若者でし
た。
 ふたりはしっかりと抱き合ったまま、光の中にとけて消えました。
 ふたりの魂は長い年月を経てやっと結ばれ、天に昇っていったのです。
 

 リラの木はなくなり、湖からは魔物もいなくなりました。
 けれどふしぎなことに、毎年春になると、どこからか舞ってきたうす紫の花びらが、湖面を
覆いつくすようになったのです。


                               (おわり)




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