ピアノひきの夢




 若いピアノひきには夢がありました。大きな舞台の上で、スポットライトの中に立ち、たくさんの観客の拍手をあびることです。
(あの輝かしい光の中に立つことができたら、どんなに気持ちがいいだろう。どんなに誇らしいだろう。一度でいいから、あの光をあびてみたいものだ……)
 けれども彼は、その夢がかなわぬことを知っていました。
 ピアノひきはアルバイトでピアノを弾いていました。吹き抜けのあるおしゃれなレストランで、夕方から夜までの短い時間だけ、古いグランドピアノを弾いているのです。
 お店の雰囲気と、ピアノの生演奏、そしておいしい料理は評判がよく、レストランはけっこう繁盛しています。いつも彼は心をこめて弾いていましたが、彼のピアノを真剣に聴いてくれる人はいませんでした。
 なぜなら、彼の弾く曲は、静かなバックミュージック。目立ってはいけないし、にぎやかな曲もいけません。この店に来る恋人たちの語らいを、じゃましてはいけないのです。
 彼の奏でるあたたかい音色が、ここにやってくる人々を優しい気持ちにさせているということに、誰も気づいてはいませんでした。そう、ピアノひき自身にも、わかってはいなかったのです。
 お店のはじっこの薄暗い場所で、毎日彼は弾いていました。いつか有名になって、スポットライトをあびる日がくるだろうかと、ささやかな夢を見ながら。

 ところが、ある日突然、ピアノひきはレストランをくびになりました。明日からもう来なくていいと、店長にいわれたのです。彼はおどろいて、わけをたずねました。
 大きなグランドピアノを処分して、そのかわりにテーブルとイスを増やすのだと、店長はいいます。そのほうがもうかるからです。バックミュージックはレコードを流すことにしたと、店長はピアノひきに、そっけなく伝えました。
 仕事を失ったピアノひきは、絶望して街をさまよいました。ビュウビュウとつめたい木枯らしが吹きつける季節でした。  鉛色の空は、今のピアノひきの心と同じ色。
(こんな時期にくびだなんて、あんまりだ……)
 ナイフのようにとがった北風が、彼の心を突き刺し、いっそう凍らせました。
(どうしてこんな目にあうのだろう。あんなに一生懸命、演奏していたのに)
 彼は店長をうらみました。何もかもを、憎みました。こんなことになるのだったら、もっと手を抜いて弾けばよかった、あんな店はつぶれてしまえばいい、とさえ思いました。

「何か、なやみがおありですね?」
 急に声をかけられて、ピアノひきは、いえ、もうピアノひきではなくなった若者は顔を上げました。
 目に入ったのは道端の占い師。魔女のような黒い帽子を目深にかぶった、女の人でした。つばの下から少しだけのぞいている瞳は、なにやら怪しげな光をたたえています。
 若者はやけくその気分で、彼女に右手を突き出しました。
「ぼくがこれからどうなるか、手相を見てくれ」
 すると彼女はだまって首をふるのです。
「手相じゃないのかい? なら水晶占い? それともタロット?」
 彼女はにやりと笑って、こういいます。
「私は占い師ではなくて、コウカン屋だよ」
 見かけは若く見えるのに、たいそうしわがれた声です。本当に、魔女のような。
「コウカン?」
 意味がわからずに、若者が首をかしげると、
「取りかえる、という意味の『交換』だよ」
 彼はああ、と納得し、また尋ねました。 
「いったいなにを交換するんだい?」
「あんたの大事なものをくれたら、代わりにあんたの願いをかなえてやろう」
 おかしなことをいう人だなと、彼は少しとまどいました。
「ぼくにはお金もないし、大事なものもないよ。ただ願いはある。有名なピアニストになって、スポットライトをあびたいんだ。お客さんの拍手かっさいを受けたいんだ」
「そうかね。だったらその夢と、おまえさんの『まごころ』を交換してやろう。どうだね?」
「まごころ? そんなものでいいのなら、くれてやる。それで夢がかなうのなら」
 若者は即座に答えました。
 交換屋の女はまたにやりと笑い、そのとたん、まわりが真っ暗になり、彼は何もわからなくなってしまいました。

 目がさめると自分の部屋でした。変な夢を見たもんだと、彼は重い頭をふりました。
 古く、お風呂もついていない、汚いアパートに彼は住んでいました。けれどピアノひきの仕事を失って、アパートの家賃さえ払えなくなったら、ここを追い出されてしまうかもしれません。明日からどうやって、暮らしていけばよいのでしょう。
 若者は深いため息をつき、頭をかかえました。
 するとそのとき、トントンとノックの音が聞こえたのです。その音に、なぜか運命が変わるような予感を感じて、彼はどきりとしました。
 出てみると、見知らぬ男の人が立っていて、こういうのです。
「あのレストランできみのピアノを聞いたよ。きみには才能がある。私のところで勉強しないかね?」
 おどろくような幸運が、彼のもとに舞い込んできました。なんとその人は、とても有名な作曲家だったのです。彼は喜んでその先生についていきました。
 それからの彼の人生は、まるで夢のようでした。何もかも、とんとん拍子にうまくいくのです。
 作曲家が作った曲を、彼がピアノで弾くと、そのレコードはまたたくまに売れました。出す曲は、次々に飛ぶように売れ、全部大ヒット。若者は有名になり、あちこちでコンサートも開くようになりました。夢だったスポットライトの中に、いく度となく立ちました。彼はあっという間に、超一流のピアニストになっていったのです。
(あの女の言ったことは本当だった。ぼくは自分の夢と、まごころを交換したのだ)
 ピアニストになった若者は満足でした。自分はこうなる運命だったにちがいない、と思いました。  そうして彼はお金持ちになり、今では高級マンションの最上階に住んでいるのです。彼は、まごころを失ってしまったという重大な意味に、まだ気づいてはいませんでした。

   いっぽう、彼をくびにしたレストランの店長は、テレビに出ている若いピアニストをながめて、ため息をついていました。あの若者がこんなに有名になるとは思ってもいませんでした。そして店長は、がらがらの店内を見渡しました。彼をくびにしてから、どういうわけか客がどんどん減ってしまったのです。  
 ここのお客さんの中には、彼の演奏目当てに来ている人がたくさんいたのだと知ったのは、彼をやめさせたあとでした。
(そういえば、心に染みいるいい曲ばかりだった)と、店長は思い出しました。
 そしてもう一度、テレビの中の彼を見つめました。彼はピアノを演奏していましたが、店長は首をひねります。
(どうしてだろう。心に響いてこない。確かに技術はうまくなったようだけど、まるでひんやりと冷たい、空っぽの音色だ。あのころのほうが、ずっと……)

 しばらくたったころ、ピアニストの母親が病気になりました。病気はかなり進行していて、もうなおることはないと医者はいいました。  彼はたくさんのお金を使って、あちこちの有名な病院をたずねましたが、医者は首をふるばかり。お金ではどうすることもできないことがあるのだと、ピアニストは思い知りました。
 病院のベッドで母親は息子に頼みました。死ぬ前におまえのピアノが聴きたいと…。
 彼は母親を自宅に連れ帰りました。マンションの最上階の広い部屋で、グランドピアノを弾きました。レコードが何百万枚も売れた、有名な曲です。
 母親はベッドに横たわって、それを聴きました。完璧に弾けたと思ったのに、母親はなぜかさびしそうな顔をしていました。そして違う曲を弾いてくれといいます。ずっと昔、自分のためだけに弾いてくれた曲を、と。
 彼はそんなこともあったと思い出し、その曲を弾きました。けれどもやはり、母親は悲しそうな顔なのです。
「おまえのレコードを何枚も聴いたけど、まるで機械が弾いているようだった」
 母の言葉の意味が、彼にはよくわかりませんでした。
「おまえはとても大切なものを、なくしてしまったんだね……」
 その言葉に彼ははっとなり、思い出したのです。昔、まごころと夢を交換したことを。
 まごころをなくした彼は、心を込めてピアノを弾くことが、できなくなってしまったのでしょうか。
 そんなばかな、と彼は何度も弾きました。母親のために、心を込めて弾こうと思いました。でもできないのです。彼のまごころは、ピアノの音の上っ面をすべりおち、冷たいフローリングの床にこぼれました。
 あとに残るのは、美しいけれど味気なく、乾いた無機質な音だけ。
 母親はあきらめたように目を閉じました。
 ピアニストは部屋を飛び出しました。もちろん、あの交換屋の女を探し出すために。
 あのときと同じ、冷たい木枯らしが吹く冬の日でした。
 でもあのときの場所に、あの女はいませんでした。彼は街中をさがし回りました。凍えるような寒さの中、必死でさがしました。
 死んでしまう母親に、たった一度でもいいから、まごころを込めた曲を聴かせたい。それだけの想いで、彼は街をさまよい続けました。そうしてへとへとになったころ、街のはずれであの女を見つけた彼は、すがるようにいったのです。
「ぼくのまごころを返してくれ」
 すると交換屋の女は、冷たく笑いました。
「あんたのまごころは、夢と交換しただろう」
「あんな夢はもういらない。金も名誉もいらないよ。ぼくは母さんのために、心を込めてピアノを弾きたい。お願いだよ、母さんはもうすぐ死んでしまうんだ!」
 女はしばらく考えていました。何かさぐるように、彼の目をみつめたあと、こんなことをいいます。
「私がなぜ交換屋をしているか、知っているかい? 人のまごころを集めるためさ」
「まごころを集めて、どうするのです?」
「人のまごころには、すばらしい値打ちがあるのさ。それを百個集めると、世界一幸せになれるそうだよ。だから私は待っているのさ。おまえさんのように、簡単にまごころを手放してくれる、おろかな人間をね」
 彼はがっくりとうなだれてしまいました。自分はたいへんなことをしてしまったのだと、後悔したのです。けれどもどうしてもあきらめきれずに、もう一度彼女に頼みました。
「お願いです。まごころを返してください。ぼくは母さんを愛している。それをどうしても伝えたいんだ……」
 母親を思う気持ちが涙となって、彼の両目からあふれてきました。
「ではあんたのかなった夢は、全部消えてしまうよ。それでいいんだね?」
「ああいいとも。ぼくは大事なことを忘れていた。大切なことに気づいたんだ」
 涙を流してうったえる彼に、交換屋の女は目をきらりと光らせて、尋ねました。
「大切なこと? それは何だね?」
「ぼくのピアノで人を感動させるということ、幸せにするということさ」
 その言葉を聞くなり、女はどこからかすばやく小瓶を取り出し、彼の涙をひとしずく瓶に入れたのです。
「『一番大切なことに気づいた人間の涙』。これは『まごころ』よりも貴重なものだよ」
 彼女はしばらくの間、小瓶の中のすきとおった液体を、うっとりとながめていました。
「これをいただいたからには、そうだね、まごころを返してやろう」
 女はうれしそうに、にやりと笑い、彼はまた何もわからなくなりました。

 気がつくと彼は部屋にいて、母親はベッドで眠っていました。
 彼は静かに弾き始めました。子どものころ母親が誉めてくれた、トロイメライという曲を。愛する母のために、ありったけの心を込めて。
 その音色はたしかに、今までとは違っているようでした。いえ、有名になる前の彼に、もどったのかもしれません。彼は自分自身が奏でるあたたかい音のおかげで、失っていたものをゆっくりと、取り戻していったのです。
 弾き終わって母親を見ると、彼女は涙を流し、微笑んでいました。そして彼を見て、ありがとう、自分はとても幸せだ、といいました。
 数日後、母親は息を引き取ったのです。おだやかな笑顔のまま……。

   ピアニストは、ただの若者に戻りました。
 彼が有名なピアニストだったという事実は、もうどこにもありません。高級マンションはもとのぼろアパートに変わり、仕事もありませんでした。けれども彼は、ふしぎと晴れやかな顔をしています。
(小さな子どもたちに、ピアノでも教えようか)
 やさしい春の日ざしに背中を押されて、彼の足はいつのまにか、ある場所へと導かれていました。そう、昔ピアノを弾いていた、小さなレストランです。
 懐かしい気持ちで店内をのぞいて、彼はおどろきました。なくなっていたピアノがそこにあったからです。
 まるで彼を待っていたかのように、そのピアノはひっそりと、優しく、その場所にたたずんでいました。
 そして中から店長が出てきて、おこったようにいうのです。
「どうしたんだ、おそいじゃないか。もう開店するよ。早くスタンバイしてくれ」
 そのあと少しにやりとした店長はいいます。
「きみのピアノはなかなか評判いいんだよ」


 若者はまた、ピアノひきに戻りました。
 前と同じように、夕方から夜にかけて、店の片すみでピアノを弾いているのです。
 ときどき、彼はふと考えます。交換屋の女は、『まごころ』を百個集めることができるのだろうかと。それとも、『一番大切なことに気づいた人間の涙』を? 
 でももう、彼には関係のないことでした。彼はもう二度と、まごころを手放すつもりはありませんでしたから。
 ある夜、彼が演奏しているときに、ふしぎなことが起こりました。
 吹き抜けの高い位置にある小さな窓から、ひとすじの月光がさしこみ、ピアノひきのもとにまっすぐに降りてきました。美しいピアノの調べに、引き寄せられるかのように。
 それは本当に、淡い淡い光でしたけれど、 まるでスポットライトのように、ピアノを弾く彼の姿をはっきりと照らし出したのです。
(ああ、そうだったんだ……)
と、彼は思いました。
(ぼくはいつもこの光をあびていたんだ。でもそのことにはまるで気づかなかった。まごころをあげなくても、夢はとっくにかなっていたのに……)
 ピアノひきは満足そうに、ほほえみました。


                                        (おわり)   


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